インタビューページ4
〈自主管理〉の住民投票へ
投票所の確保に苦労
― その回答をもって自主管理投票を行うと
1995年1月22日から2月5日までの15日間を投票日として準備をはじめました。投票場所については最終的に八ヶ所用意しましたが、主投票所として予定していた町営体育館の使用が町から断られると、他の地区公民館の使用も区長さんからバタバタと断られてしまいました。越前浜地区の町議であり区長である人にお願いに行ったら「俺の目の黒いうちは貸せらんね」と言われました。公民館は地区民のものであって、地区民が投票に利用するのに使おうというのに…。結局、越前浜地区は書道教室を借りることになりました。漆山地区は二ヶ所とも借りられなくて、カラオケ道場がひとつと、もう一ヶ所は不動産屋から空き地を借りて、そこにプレハブを設置して会場にしました。松野尾地区は私の地元なので借りることができました。五カ浜地区、四ツ興野地区は貸してもらえなかったため、ワゴン車を手配し、立会人に同行していただき巡回投票を行いました。
― 会場の確保だけでもそこまで
角田浜地区も推進派の町議であり区長でもある人でしたが、貸してもらえました。そういう人もいましたね。竹野地区は貸していただけました。5・2地区は最初貸していただけることになっていましたが、後で断られて、再度、お願いに行ったら責任者は苦しい中にも決断し、貸して下さいました。
― 投票に関わる準備で他には
投票箱などの選挙道具に関しては、「役場の管轄外だから選挙管理委員会に問い合わせてくれ」と言われました。5人いた委員の中で、意見が二対二で分かれたそうです。委員長判断で、なんとか貸してもらえることになりました。あとは投票、開票の立会人ですね。投票率も重視しましたが、それ以上に投票結果に後ろ指を指されないように公正さの確保に努めました。投票立会人は、弁護士や学校の先生、大学教授、僧侶、現職町長の地区後援会の責任者などにお願いしました。
― え!? 協力してくれたんですか
私の幼馴染みでしたから(笑)。投票立会人は、町内外から来てもらいましたが、開票立会人は地元で固めました。元教育委員長や選挙管理委員長のせがれさんなどに。
― 町民それぞれがほんとうに複雑な関わりの中に立たされていたんですね
あと投票用紙にはスカシを入れたものを使用しました。
― 用紙までも…。実行する会のみなさんはそれまで政治運動などされたことのない方ですよね
最初に集まった7名のうち6名はそうでしたが、弁護士の高島民雄さんはそれまで反対運動に関わってきた方でした。高島さんがいろいろと制度のことを調べてくれたんです。それと「実行する会」としては、原発について賛成や反対かの主張はせず、とにかく町民の意見を聞いて決めようという主張のみを行いました。
そういうこともあってか、当初は原発推進派にも反対派にも警戒されました。
― 実行する会は推進か反対かは言わなかったと
私たちとしてもここに来て、推進、反対のどちらかの運動をやられては困りますのでね。反対派の団体はすでにいくつかあり、それぞれがバラバラに活動していましたが、その六派がこの機会に団結し「住民投票で巻原発をとめる連絡会」を結成し、運動を展開しました【註5】。推進派は投票自体に行くなと、ボイコット運動を行いました。
― それぞれの運動はどのように展開されたのでしょう
推進派、反対派、「実行する会」などがそれぞれにビラを出したり、各地区を回ったりしました。少ない日で三枚、多い日は十数枚のビラが入ってきました(本誌にて掲載予定)。反対派と「実行する会」は白黒刷りでしたが、推進派はカラー刷りのことが多かったです。また東北電力も『あげは』や『かくだやま』といったチラシを制作して折り込みました。運動が進む中で、いやがらせの電話や手紙がきたり、車のタイヤがパンクさせられたり、カミソリの入った封筒が届いたりもありました。私自身に対しては、車の窓ガラスが割られたり、シートが燃やされたりもありました。
― …。そこまでいくと事件では
役場に車を停めて議会を傍聴し戻ると、鍵を閉めていたはずなんですが、助手席から火が出ていました。さすがに警察を呼びましたが、その時は、相談して事件にはしませんでした。あと新潟日報の新聞販売店からチラシの受付を断られることもありましたね。
― それは推進派や東北電力からの圧力ということでしょうか
えー、それはわからないです。とにかく受け付けられないとのことだったので、手配りになったこともありました。